スワコイズム

ヒュッゲにシンプルにミニマムに。夫と娘二人と私の身の丈暮らし。 ミニマリストになれるかな。

同い年、知人の訃報に思う。

訃報の知らせ


今朝、目が覚めて携帯を見ると、友人からのラインで知人の訃報を知りました。

起きた瞬間に見たので、いまいち受け止めきれず、とっても驚いたのと、ショックとで、しばらく思考が停止しました。

それと共に、一気に、その方のことを思い出しました。

「良い人ほど若くして逝く」


亡くなった男性は、高校時代の知人です。高校は別ですが、通っていた塾(予備校)が一緒で、友人を通して知り合い(友人と呼ぶには失礼な気がするので…)になりました。

高校が別、しかも男性、なんて、当時の私にはかなり遠い存在で、正直、顔は分かったけれど、知っている人が増えちゃってどうしよう…会ったら挨拶とかしなきゃいけないよね…あー気が重い…状態でした。

しかし、その方はとてもフランクで、会えば彼の方から挨拶をしてくれたり、優しく楽しく友達想いの、本当に良い意味での、「THE 良い人!」でした。その頃の私を思い返すと信じられませんが、全く気負わず、いつの間にか普通に話したり、他の友人も交えて一緒に勉強したり、、「友人」と呼んで良いような時期も、あった気がします。

高校を卒業すると、もちろん共通点がないので、全く関わりなく(むしろ思い出すこともなく)、今日まで来たわけですが。

「そんな人になりたいね」


そんな一瞬しか関わっていない、そもそも友人でも同級生でも何でもない、その方。(もちろん恋愛感情もなく)

それなのに、思い返すと思い出すのは、彼の笑顔であり、友達思いの言葉であり。そして、彼のことを殆ど知らない私でも、彼の周りにはいつも友達がいて賑やかだった、と思います。


何より、彼が友達を思うように、彼の友達も彼のことを思っていた。

そうじゃないと、こんなよく分からない関係の、友人と呼ぶには遠すぎる私のところにまで、彼の訃報が届くわけがありません。


彼の訃報を知らせてくれた友人と、「そんな人になりたいね」「皆から愛される、ね。」という話になりました。

友人は、お通夜で大分気持ちを昇華させた(むしろお通夜は友人同士盛り上がった)ようで、亡くなってもなお、友達思いだなぁ、と思わされました。

しばらく闘病をされたようなので、天国で安らかに笑っていてくれれば、と思います。

どう生きるか


同い年なので、まだ30台に足を踏み入れたばかりだった、その方。

病気が分かってから、亡くなるまで、約3ヶ月。早いなぁ、。

人が亡くなる話を聞くと、考えるところもありますが、私自身は、正直いつ死んでも良いと思いながら生きてきました。(娘が生まれた今は、彼女の成長を見たいと思いますが。)

また、いつ死んでも良いように、残された人が困らないようにしなきゃという気持ちは、なぜか昔から、ずっとあります。

ミニマムに生きると、あとに残された人があまり困らないだろうというのは、想像できます。

天国には何も持っていけない(きっと天国には何でもある)のだから、生きていく上での物質的なものは、本当に少なくて構わないな、と改めて思います。

少しでも良いことに励み、周りの家族、友人、私に関わってくれる方が、笑顔で穏やかに生きてくれたら、もし悲しかったり苦しかったりするときには、一緒に悩めたら、私が生きた意味(?)も、少しはあるのかな、なんて思います。

こう書くと、すごく「良い子ちゃん」の答えに思えてしまうけれど、今朝の訃報で考えさせられた、私は私にできること、を、日々の暮らしの中で、1つ1つ重ねていけたとすれば、自分の納得のいく生き方・死に方ができるのかもしれません。